中学校一年の夏休みに、少年は生まれて初めて文庫本というものを買った。
近所に住む友達と、隣町にある市民プールに行った帰りのことだ。プールで遊んだ後の特有のさっぱりした余韻をまといながら、友達と国道沿いの歩道を歩いていると、小さい書店をみつけた。
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お小遣いが少々残っていた少年は何となく、何か本を買おうかなという気になり、友達を誘って一緒に店内に入った。
それぞれが思い想いに本を眺めること二十分ほど・・・ある文庫本の背表紙が少年の目に留まった。
『シャーロック・ホームズの冒険』
(あっ、そういやホームズものは学校の図書館で何冊か読んで、ごっつ面白かったわ・・・)
少年は背表紙に引き寄せられるように近づき、その文庫本を棚から抜き取った。そしてパラパラとめくってみた。
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その時だった。
今まで特に意識したことがなかった「新しい本のインクの匂い」が鼻を心地良く突いたのである。
(うわあ・・・なんやええ匂いや・・・)
少年は思わず開かれた本に顔を近づけて、深く匂いを嗅ぐと、知らず識らず鼓動が早くなった。
この匂い・・・何かが始まりそうな匂いや・・・
少年は中学生なりに印刷物に擦り込まれた、その著者コナン・ドイルを始めとして、出版に携わる多くの人達の熱量を感じ取ったのかも知れない。智慧と感動を永く後世に遺そうとする行為に、惹かれたからかも知れない。
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ともかく、少年はその本が欲しくなり、買った。少年は本というものは何冊も買ったことがあったが、「文庫本」を買ったのはその時が初めてなので、何だか・・・少しだけ大人になったような気がした。
少年はその日から、その本を読み耽った。
それまでに読んだことのある児童向けのホームズものとは違い、よりシリアスで面白く感じた。少年はその本を皮切りに、その後も多くの小説に出会う「読書の旅」に発った。
やがて少年は青年となり、音楽の楽しさや服飾の面白さに目覚めるが、小説への興味が失せることはなかった。
その青年も大人となり様々な経験を経て、プール帰りの『シャーロック・ホームズの冒険』との出会いに始まった「小説」という素晴らしい人類の智慧に対する感動と敬愛を世の中に伝えたくて、物書きになった。