或る物書きの英語喉と小説まみれのジャズな日々

  英語喉とジャズと小説をこよなく愛し、映画・アニメ・漫画・R&B・70年代ロック・Suchmosなどに眼がない或る物書きが綴る

パリ1964年1月29日、それはビートルズによる世界音楽史の上書きが始まった日

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ビートルズ画像
 

 Contents

 

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EMIのアメリカ市場への焦り

 

ビートルズを抱えるイギリスのレコード会社EMIは、「プリーズ・プリーズ・ミー」が英国で人気に火がついた頃から、アメリカのマーケットへの売り込みを始めていた。しかしながらメジャーなレコード会社からは、ほとんど相手にされなかったのだ。

 

そんな中で興味を示したのが、シカゴのマイナーなレコード会社「VJ」であった。

「プリーズ・プリーズ・ミー」と「フロム・ミー・トゥ・ユー」のシングル2枚をアメリカで発売し、アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』の発売する権利も手に入れた。

 

しかし、VJは折からの経営不振で会社自体が立ち行かなくなり、アルバムは発売延期となった。

 

EMIとしてはVJとのビジネスが不発に終わったので、次作の「シー・ラブズ・ユー」をフィラデルフィアのマイナー・レーベル「スワン」からリリースした。しかしこれら3枚のシングルは、アメリカでは全く振るわなかったのだ。

 

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ローカルラジオがメジャーを動かした

 

EMIの懸命な売り込み攻勢の結果、メジャーのキャピタル・レコードから辛うじてシングル「抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)」を翌年にリリースする話に漕ぎ着けていた。

 

そんな状況の中、イギリスでの人気を聞きつけていたアメリカの一部のローカルラジオ局が「抱きしめたい」のイギリス盤を掛けて、これが受けて同時多発的にリクエストが急増し、業界に噂が広がったのだ。

 

   

尋常ではない草の根の盛り上がりを察知したキャピタル・レコードが、翌年リリース予定にしていた「抱きしめたい」を、慌てて予定を繰り上げて年末にリリースした。

すると、既発のシングルもそれにつられてヒットチャートを駆け上がっていくというオマケがつくことになる。

 

そして年が明けた1月にビートルズ人気はもうローカルではなく、広大なアメリカのいたる所で盛り上がり、ついに全米ヒット・チャートで「 抱きしめたい」がトップに輝いた。

 

※アメリカ進出初期に関して、別の視点も加えて詳述しているので参考に

 

ビートルズがその知らせを受け取ったのは、パリであった。

 

ビルボード・ホット100のトップをビートルズが飾ったことを伝える2月1日付けの「ビルボード」誌を、彼らはパリ公演ツアー中に現地のホテルで手にしたのだ。そしてマネージャーのブライアン・エプスタインとともに祝賀の宴を設けた。

 

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世界を的に、パリで始動

 

その直前の1月29日、彼らはパリ公演の合間を縫うようにEMIのパリ・スタジオで、年が明けてから初めての録音をおこなった。

 

それは1963年にリリースされてイギリスで大ヒットを飛ばした「シー・ラブズ・ユー」と「抱きしめたい」のドイツ語バージョンを録音する作業であったのだ。

 

現在ではそのようなことは考えにくいが、当時の事情として外国のタレントを自国語で売り出すことは世界共通のデフォルトであったのだ。

アメリカなどの英語圏は問題ないが、当然ドイツのレコード業界からは、「自国語でないと売れないのでドイツ語バージョンを」との強いリクエストがあった。

 

それに応えるためにジョージ・マーティン率いるレコーディング・スタッフが、ビートルズを追いかけるようにパリまでやってきたのだ。

 

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ドイツ語バージョンの録音

 

当然ビートルズは気乗りがしなかったが、断るわけにもいかずに録音をした。

「抱きしめたい」は、既発盤で使ったベーシック・トラックを持ち込んで、ドイツ語のボーカルをミックスした。

ところが「シー・ラブズ・ユー」はベーシック・トラックがすでに処分されていたのだ。止むを得ず楽器演奏とドイツ語ボーカルを生録音して制作された。

 

このおかげでドイツ語版ではあるが「シー・ラブズ・ユー」のステレオ・バージョンが初めて生まれたのだ。

というのも、「シー・ラブズ・ユー」のオリジナル英語版に関しては、モノラルのシングル用マスター・テープしか残されていない。よってステレオでのリマスターは現在でも不可能であり、ステレオ・バージョンは世界中どこにも存在しないのだ。

 

※「She Loves You」ドイツ語バージョン

 

※「I Want To Hold Your Hand」のドイツ語バージョン

 

パリでドイツ語だけでなく英語バージョンも録音されていれば・・・と残念に思うファンの数は計り知れないが、後の祭りである。

 

その日、レコーディングはかなり順調に進んで時間が余った。そこで、次回シングル用の「キャント・バイ・ミー・ラブ」も録音もしておこうということになった。

取り掛かるや、わずか4テイクでベースとなる音源のほとんどが録音できた。

 

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1964年の凄まじき展開

 

結果的に1964年はビートルズにとって世界進出を本格化した、まさに世界の音楽史を上書きし始める年であった。

 

1月のフランス・パリに始まり、2月はアメリカ遠征、その中でアメリカで最も有名な人気TVバラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー」への3回の出演で全米に圧倒的な存在感を示すことになる。 

 

 

そしてデンマークやオランダから、香港・オーストラリア・ニュージーランド等の英連邦各国におけるコンサートもこなした。

 

8月にはアメリカ・カナダのいわゆる北米ツアーを敢行した。

 

また7月には主演映画『A Hard Day's Night』がイギリスから公開が始まり、日本では『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』とのタイトルで公開された。

※2000年には邦題を『ハード・デイズ・ナイト』に改めてリバイバル上映された。本年(2019年)にも映画公開55周年を記念した「一夜限定」の上映会が10月28日に東京・大阪・札幌・福岡のライブハウスZepp各店でおこなわれ、反響を呼んだ。

 

秋には本拠地イギリスの国内ツアー、年末にはクリスマス・ショーで超がつく多忙な中、一年の幕を閉じたのであった。

 

ちなみにこの1964年にビートルズがイギリスで発表したレコードはアルバムが2枚、シングルが3枚、4曲入りEP盤1枚というまさに八面六臂の大活躍であった。

 

 

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