心の奥底を突き動かす音楽には命の躍動が宿っている
藤井風(ふじいかぜ)とは何者?もうすでに知っている人もかなりいると思うが、まだまだ知らない人も多いと思われるので、その人たちのために書こうと思う。なぜなら、その青年を知らないことは音楽好きとしては損?は言い過ぎとしても、得をし損ねる(やは…
一般的に『ビートルズ・フォー・セール』の評価は低めである。 「ビートルズ売り出し中」という軽めのタイトルのせいか、華々しい映画主演と連動したアルバム2枚に挟まれたせいか?しかしアイドルから脱皮した人間味ある青年のアルバムとして秀逸である。
ビートルズにとって1964年は世界的にブレイクした一年。アメリカで火が点いて、二度の遠征をおこない、映画『A Hard Day's Night』に初出演し、同名アルバムも大成功を収めた。その制作に絡んだ秘話を綴りあげたキンドル本を発刊した。
初期ビートルズの「I SHould Have Known Better(恋する二人)」はアルバム『ハード・デイズ・ナイト』のA面2曲目だ。ジョンによる秀逸なアルバム表題曲の後に、立て続けにジョンの素晴らしいフォークロック・チューンが始まる。
1964年にリリースされたルズのオリジナル・シングル盤「キャント・バイ・ミー・ラブ」は予約だけで英国では100万枚、アメリカで210万枚という偉業を達成した。この斬新なブルースは多くのアーティスト、とりわけジャズマンがこぞって演奏している。
ビートルズ「ユー・キャント・ドゥー・ザット」はストレートなロックチューンで、ビートルズらしい曲の構成とサウンドになっている。ギターバンドの面目躍如たる演奏であり、「ハード・デイズ・。ナイト」はこういう曲が聞ける最後のアルバムかも知れない。
初期ビートルズ名曲「If I Fell」の冒頭のコード進行は多くの人が不思議なコード進行だと思っていて、ジョン・レノンの見事なコードアレンジに対して「強引」とか「適当」などと決めつける者もいる。ここらできちんと音楽的な解釈に決着をつけよう。
ビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」は『ア・ハード・デイズ・ナイト』の中でもとりわけ情緒たっぷりで印象深いポールによる曲である。メロディの美しさや甘く切ないボーカル、コーラスラインの秀逸さはもちろんだが、この曲の決め手はガットギターだ。
初期ビートルズの大ヒット曲「ア・ハード・デイズ・ナイト」には昔からコアなファンの間で囁かれる謎めい部分があった。不思議なイントロとアウトロにした訳は?タイトルは本当に文法的におかしいのか?間奏のピアノを1/2速で録音までしてなぜ入れたのか?
1980年12月8日午後10時50分頃、ジョン・レノンはニューヨークのダコタ・ハウスの自宅前でマーク・チャップマンに銃撃されrて死亡した。2019年12月8日はその日から40回目の忌日である。ジョンを偲んで、その日のことを小説に描いてみた。
1964年2月ビートルズが初登場したエドサリバンショーは視聴率70%超を獲得し真の神回となった。そして4月4日付ビルボード誌ホット100においてアメリカ国民は1上位5曲をビートルズが独占すると言う、まさに空前絶後の大快挙を目の当たりにした。
ビートルズ2ndアルバムは12月7日、30週連続トップを維持した自分たちの『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけ全英ヒットチャート1位を獲得し、翌1964年5月まで21週間連続で1位の座を守り、ビートルズの世界進出への大いなる助走となった。
チャック・ベリーは1964年当時は多くの人達が知らなかったはずなのに、ビートルズのおかげでまるで記憶を塗り変えられるように超一流ロックンローラーとなり、やがてチャック・ベリーは日本では「ロックンロールの神様」に祭り上げられるに到るのである。
これまで筆者が発刊した、ビートルズ名曲誕生秘話集シリーズ1〜3巻をまとめた集大成版Kindle本を発刊した。シリーズはまだ続くが、現時点までの1〜3巻分を一堂に会しただけでも、相当な分量になった。目次だけでも半端ないが、参考に紹介しておく。
1964年はビートルズにとって世界進出を本格化した、まさに世界の音楽史を上書きし始める年であった。1月はフランスのパリ、2月はアメリカ遠征、デンマーク、オランダ、英連邦各国におけるコンサート、8月にはアメリカ・カナダの北米ツアーを敢行した。
ビートルズに関するコラムを書き始め、これまで合計32本のコラムを書いた。エピソードはその時点だけではなく後の出来事に繋がっていて、並べ直すと違った読み方ができる。初期のビートルズ秘話もかなりの数になってきたので、一度時系列的にまとめてみた。
ローリング・ストーンズのデビュー・シングル「カム・オン」はイギリスで1963年6月7日にリリースされた。これはチャック・ベリーのカヴァー曲であった。彼らはこのデビュー曲ぼ選択には、いささか不満があった。彼らはロックンロール以上にR&Bに心酔していた…
1963年の夏も終盤、体調不良のため安静にしているジョージ・ハリスンの元をレノン/マッカートニー名義の著作権を管理する「ノーザン・ソングス」をビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインと設立した人物ディック・ジェイムスが訪れた。
ビートルズのセカンド・アルバムがリリースされたのは1963年11月22日である。同じ日にアメリカと日本では衛星中継によるテレビ電送実験がおこなわれ、ケネディ大統領からの祝辞が届くはずであったが、海を越えて伝えられたのは驚くべき事件であった。
ビートルズの「イット・ウォント・ビー・ロング」はアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』の最初の曲であり、勢いはフルスロットルなのにやけにリラックス感があり、若いのにレイドバック感がある「これぞビートルズ・サウンド」とも言うべきロックンロールだ。
「オール・マイ・ラヴィング」はビートルズの2枚目のアルバムの中でとりわけ完成度・人気・評価が高いモンスター・チューンで、ポール・マッカートニーの桁外れの作曲の才能と、メンバーの楽器演奏力、アレンジスキルが組み合わさった典型的な見本でもある。
ビートルズのアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』でジョージ・ハリスンが歌う「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」はメロディアスなラブソングでジョンの作だ。言いたくても言えないマネージャー・エプスタインの恋の秘密を指していた。
バンドの中でドラマーは楽器の性格上、一般的にはボーカルを取ることが少ない。これはドラマーとしての宿命だ。リンゴ・スターもボーカルを取ることは少なく、コーラスへの参加も少ない。しかしボーカル技術的なものというより声質的なものによるところが多…
ビートルズのセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」は「ビートルズ」というスケールの大きい音楽・カルチャー革命の幕開けを告げた。実はこのアップテンポの名曲は元々はバラードだった。ジョージ・マーティンの助言でテンポを変え、大ヒットした。
ビートルズのデビューアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』の、わずか1日しかなかい収録の最終段階で、奇跡的な一発録りで秀逸なカヴァーが生まれた。アイズレー・ブラザーズのヒット曲「ツイスト&シャウト」だが、原曲を遥かに凌駕する出来栄えとなった。
デビューアルバム『プリース・プリーズ・ミー』の劈頭を飾る「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」は、ビートルズを初めて聴く多くの者の心を鷲掴みにしたのは間違いない。何が洒落ているかって、いきなり若きポール・マッカートニーの弾むような生の…
ビートルズのデビューアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』は1963年4月にイギリスでリリースされ、翌月に全英ヒットチャートのトップに躍り出て以降、30週に亘って首位を独占した。このアルバムはなんと僅か1日、約13時間で収録された。それにも関わらず、…
アルバム『アビイ・ロード』はエンジニアのジェフ・エメリックとプロデューサーのジョージ・マーティン無くして生まれなかった名盤だ。アルバム『アビイ・ロード』にまつわる興味深いエピソードや、謎のまま語り継がれていることが色々と存在するが、昔は情…
「ビートルズ」の『アビイ・ロード』には「エヴェレスト」という「元タイトル」があった。ビートルズにとって12枚目のアルバムである。1967年8月にマネージャーのブライアン・エプスタインが急死してから、求心力を失ったビートルズは『ホワイト・アルバム』…
「Ebony and Ivory」という名曲がある。Ebonyは黒檀、Ivoryは象牙を指す。転じてピアノの黒鍵と白鍵を意味する。1982年にポール・マッカートニーとスティービー・ワンダーのデュエットで発表された曲だ。 お察しの通りこれは白人と黒人(及び有色人種)…